新島襄全集 - 新島襄

新島襄全集

Add: rizafy79 - Date: 2020-11-21 12:01:02 - Views: 1831 - Clicks: 8202

. 最初は書類上の責任者として始まった新島の同志社女学校との関わりは、同志社女学校に対してだけというよりは、広く日本の女性全体に対する女子教育の関心へと大きくふくらんでいった。たとえば、1878年7月の岸和田伝道において、最初のうち伝道集会に集まってきたのが男子ばかりであるのをみて、新島は「キリスト教は男子だけのものでなく女子にも等しく伝えられるべきもの」(1878年8月2日)と女性の集まりを提案し、2日にわたって百名を超える女子の集会を実現させたことなどは、「アメリカの母」たちへの尊敬と愛情を通して新島の女性に対する意識が高かったことを示す早い時期の好例である。「新島氏はキリスト教が男性のみならず女性のための宗教であると宣言した最初の人だと好意を持って受け入れられています」(1878年8月28日チャイルド宛)と、宣教師文書で報告されている。 新島はまた、アメリカン・ボードと関連して設立される女学校には協力を惜しまなかった。同志社女学校だけでなく、神戸英和・梅花女学校の教育を後押しするために、同志社英学校の卒業生を何人も両校に送り込んでいるし、前橋に共愛女学校ができるときには新島自身が発起人の1人になった。また、同志社女学校だけでなく梅花女学校では式典に招かれ、女学生へのメッセージを述べているし、熊本遊説に出かけた折にも、日本に文明の基を築くために女子教育は必須であると説いた。 さらに、彼の死の1か月前に矯風会書記の佐々城豊壽に宛てた「頼みたき事業」の中には、新島の女子教育観の集大成とも言える熱い思いが吐露されている。 貴姉に頼みたき事業あり、そは外の事ならず女権を拡張することにもふ一層の力を盡されたし(. 新島襄にいじまじょうと聞いて、何を思い浮かべますか? 同志社を作った人、もしくは新島八重やえの夫というイメージでしょうか。 今回は新島襄とはどんな人物で、どのような経歴を持っていたのか簡単にご紹介します。 新島襄はどんな人? 新島襄 年表 日本にキリスト教主義の学校を作っ. 新島襄先生の遺言と私の人生-時危うくして偉人を想う- 森中 章光: 新島研究の権威者森中章光先生の日記 -日々綴られた新島研究の足跡- 吉田 曠二: 恩師の書簡-洗心草堂- 森中 章光編: 波多野政雄: 新島襄と仏教徒-初期の同志社をめぐる仏教界の動向. 新島襄は上州安中藩士の長男として江戸で生まれます。 本名「七五三太(しめた)」。 早くから洋学に興味を抱き、幕府の軍艦教授所(軍艦操練所)に学び、 アメリカの新知識や聖書に感銘を受けたことから. でした。(引用「現代語訳新島襄」202~203頁、「新島襄全集6」315頁)そこでは次のような ことが書かれています。『手紙を書こうとすると、何もかもが混乱して収拾がつかなくなりま す。机に向かい、ペンを取ったのですが、何もできませんでした。.

デイヴィスは京都にトレーニング・スクール(アメリカン・ボードは牧師養成学校の謂で同志社英学校をそう呼んでいた)が建設されるとの構想が持ち上がったときから、それとペアの関係にある女子の教育機関が必要であると熱心に主張していた。彼は日本ミッションに対してその必要性を主張するのみならず、ボード本部に対して、女生徒の教育者となる独身女性宣教師の派遣を幾度となく要請していた。なぜなら、この時点でその仕事は独身女性宣教師によってしかできなかったからである。 そのような状況の中で、新島襄は少しずつ女学校創設に関心を持ち、実際上の仕事に関係していっただろうことは容易に想像される。後述するように、結婚したばかりの八重は新島宅でドーン宣教師夫人と女学校を始めることになったし、スタークウェザーが来日すると、新島も「京都ホームの教師として確保された」(1876年5月10日クラーク宛. 同志社の創立者・新島襄が東大という存在を強く意識していたことは、残された文書や演説記録にも明らかである。だがその言及のしかたは、一般日本人向けと、キリスト者向けでだいぶ違っていた。 すでに触れたように、一般日本人に向けた文書や演説において、東大創設は「亜細亜文化の魁」とも評された。東大は、明治政府の教育努力の賜物である。〈官〉がこのような美事を成し遂げたからには、我々〈民〉も黙っていられない。すぐに私立大学の設立に邁進すべきだ。一般向けの新島の主張を要約すると、こういうことになる。 東大は、明治政府が作ってくれた大学の〈モデル〉である。国民がこれにならって数多くの私立大学を創設してこそ、政府の意にかなう。そうだ、京都に私立大学を作ろう(つまり同志社大学)。新島はこの論法で大学設置運動への支援を呼びかけたわけである。 ところが、外国教会または日本人キリスト者に向けたメッセージではまったく異なる。東大はキリスト教の敵として描かれた。学校経営者の立場から見た場合、新島存命中の同志社は東大のライバルにはなりえなかった。必ずしも学力の問題ではない。そもそも同志社は大学を持っていないので、比較や競争が発生する余地がないからである。 だが、キリスト教の伝道者としての新島、という観点から見ると、話は変わってくる。伝道者新島は、東大を日本におけるキリスト教布教の障害物と捉えていた。東大および東大を頂点とする政府の学校に対抗できるキリスト教高等教育機関を作りたい。この願望が新島の大学設置運動の根幹にある。. 待望の新島襄全集』第八巻が七月に刊 を確認することができなかった。がら出典が明記されていないために、それくような記禁随所に見られるが、残念なて作成された努力の結晶であり、アツと驚らに新島に関する資料を収集し、判読されれている。.

)御身達決して失望することなく倦むことなく憚ることなく断然世の革命者と成られよ。否世の改良者と成りて働らかれたし(『女学雑誌』198) この時期、生命の終わりを自覚していた新島襄にとって、日本女性に対する精神的自立と社会改良事業への積極的な参画を願う気持ちは、同志社大学設立の願望とともに、ますます強くなっていたと言える。 記. 新島家は板倉家の上屋敷内の藩士の家に住まうようになっていました。そのため安中藩上屋敷で新島襄は生まれます。 新島襄は天保14年(1843年)1月14日に生まれました。新島襄は七五三太(しめた)と名付けられます。. )一体婦人は社会改良や社交の事には男子よりも勢力あるものなり(.

彙文堂 京都府京都市. 『新島襄全集』 新島襄著 新島襄全集編集委員会編(全10巻 同朋舎出版) 『黒い眼と茶色の目』 徳富徳次郎(蘆花)作(岩波文庫1939 / 新橋. 海外留学 (12) 出身 安中藩 生年月日 1843年2月12日 没年月日 1890年1月23日 年齢 満46歳没. 古本・古書検索最大級の通販サイト 日本全国900軒の古書店、古本屋が参加 書籍データ600万件超 随時更新中 絶版書や探していた珍しい本・資料が見つかる買える!.

Hardy)、シーリー博士夫人(Elizabeth T. Hidden)である。この3人はともに信仰篤い婦人たちであり、愛情細やかな手紙を何通も新島に送って、失意の時の、あるいは病床にある新島を慰め励まし た。また、おのおのの家庭にあっては、ニュー・イングランドの典型的なクリスチャン・ファミリーの生活を彼に実体験させてくれた。そして、それは八重との夫婦生活の中で見事に実践された。 しかし、「アメリカの母」たちがどのような教育を受けたかということは新島にはあまり関心がなかったようである。さらに、新島がもっともよく出入りしたハーディ家に娘がいなかったことも、アメリカにおける女子教育について考える機会を失することになったかもしれない。滞米中アーモスト大学のすぐ近くにあるマウント・ホリオーク・セミナリー(Mt. ・『新島襄全集 10 :新島襄の生涯と手紙』(同朋舎出版, 1985)のp. これまでの新島襄研究の中では、新島の日本脱出行は、彼のやむにやまれぬ「憂国の情」によって決行されたものであるとの面が強調、説明されてきた。 しかし、近年、青年新島の、もっと複雑な内面の精神世界から、脱国の動機を見直そうという動向が顕著になってきた。すなわち、窮屈な江戸安中藩邸から見上げる四角い空ではなく、大海原の上に広がる大きくて丸い空を求めて、新島七五三太は江戸を離れた。この海を渡れば、大統領を国民が選ぶ国がある、その国ではもはや藩主の顔色をうかがう必要はなく、学びたいと願う学問を心ゆくまで学ぶことができる、そこには宇宙を造り給うた天の父を信じ、その教えに従って自由に生きる道が備えられているといった「櫪からの脱出」に注目してみる見方である。 そのような思いを胸に国を出た新島七五三太青年に、アメリカではハーディ夫妻との幸運な出会いが待っていた。1865年10月から足掛け10年間、ハーディの援助のもと新島はフィリップス・アカデミー(Phillips Academy)、アーモスト大学(Amherst College)、そして、アンドーヴァー神学校(Andover Theological Seminary)で真剣に学ぶことができた。また折しも訪米中の岩倉使節団に協力して、米欧の各地で教育の現状を視察するという機会にも恵まれ、脱国の罪は問われないことになった。彼の求めていたもの、否、それ以上の恵みがすべて与えられての帰国となった。そして今度は、キリスト教によって日本の国を変えようとしてアメリカの岸を離れた。 このページの先頭へ. 新島襄全集2 宗教編.

『新島襄全集』『現代語で読む新島襄』『新島襄の手紙』『新島襄 教育宗教論集』『新島襄自伝』など、新島自身の文章を資料として利用することが望ましい。 応募原稿は原則として返却しない。. 新島襄全集(9) - 新島襄 - 本の購入は楽天ブックスで。全品送料無料!購入毎に「楽天ポイント」が貯まってお得!みんなのレビュー・感想も満載。. 島襄全集5』73-74 頁)。 テイラーは立派なあごひげを蓄えていたから関羽髯の武将を連想したのであろう。しか し21 歳の新島が出会った時、テイラーはまだ34 歳であった。兄貴のような存在だったと 回想している。. クラーク(Nathaniel George Clark)に報告したものである。その4番目に新島夫人の存在を挙げ、「彼女は大筋において、優れた夫人であるが、京都ホームでは役に立たないばかりでなく、彼女の影響力が女教師に対して不利に作用し、不平分子を煽り立てる結果になっており、こ. 本 の優れたセレクションでオンラインショッピング。. このように、このイエスの言葉はラテン語やドイツ語や日本語など、いろいろなバリエーションを伴いながら伝えられ、現代の日本にも生きているのです。 ところで、この「真理」とは、一体どういう意味なのかが問題となってまいります。しかし今は、哲学的な真理の厳密な定義の問題はさておくとして、一般に「真理」といえば、客観的に誰もが本当だと認めることができることを指していると言えるでしょう。理性で認識することができる真理です。ギリシア語で真理はアレーセイアと言いますが、これはもともと「覆われていない」という意味です。皆さんも、大学で学んでいる学問はこの意味での真理を探求する営みだと理解しておられることでしょう。 ヨハネによる福音書も、このギリシア語を使っているのですが、しかしヨハネによる福音書全体の文脈や思想を調べてみますと、これとは違った意味合いを含んでいることが分かります。 ヨハネによる福音書一八章三七節で、十字架につけられる前に逮捕されたイエスが、ポンテオ・ピラトの尋問に対して、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と言うと、ポンテオ・ピラトがイエスに「真理とは何か」と尋ねる場面があります。しかしイエスは何も答えていません。 では、その答えはどこにあるのか。ヨハネによる福音書一四章六節です。「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』」 この言葉は、同志社の礼拝堂や栄光館に置かれている聖書台の正面に漢文で「我即道也我即真也 我即命也」と書かれているのですが、イエスが真理だというのです。 なぜイエスが真理なのでしょうか。それはイエスによって神の真理が明らかにされたからです。では、神の真理とは何か。それは理性で認識できる真理だけでなく、信仰によって初めて認識することのできる真理をも包括しています。旧約聖書によれば、神は「真理の神」(詩編三一編六節)であり、「恵みと真理」(慈しみとまこと)(詩編八六編一五節)なのです。エメトというヘブライ語なのですが、これは祈りのあとに唱えるアーメン(確かである、信頼できる)と同じ語根の語です。そして、ヨハネによる福音書は、この「恵みと真理」とが「イエスを通して現れた」(一章一七節)のであり、その意.

1、「新島襄全集 8」年譜編 新島襄全集編集委員会編 1992年7月10日発行 発行所同朋社出版 2、「新島襄全集 1」教育編 1983年2月25日発行 同委員会編集・同社発行 ( )内の数字は陽暦。満年齢計算です。. )今貴姉(とよ壽)に如斯事業を託するは愛姉の命を縮むる様のものにて私情に於ては忍びざる事ながら(. 上 9下.

. 彼らは近代科学をも欲しているのです」(『新島襄全集』10 二一四頁以下)。 新島の志を的確に理解して積極的にサポートしてくれたのは、アメリカの父ハーディーや同志社創立当初からの宣教師デイヴィスをはじめ、その後同志社の教育に参加してくれた. ^ 『新島襄全集 第3巻(書簡集)』p169-173。「明治13年2月25日付新島八重への手紙」より ^ a b 石田明夫「会津の華は凛として」 第48回「夫・襄との別れ」 福島民友新聞社、年2月24日 ^ 「新島襄の交遊」本井康博 著・年 思文閣出版 ISBN. 完全にキリスト教の基礎のうえに建設され、いまや公然とイエスの学校として人々に認知されている。学校は、全国各地から多くの若者を惹きつけるセンターとなった。若者の多くは信仰を持たない状態で入学するが、学校を去る前に、少しの例外を除いてみな信者になっている」(‘AN APPEAL FOR ADVANCED CHRISTIAN EDUCATION IN JAPAN’、『新島襄全集』第7巻、英文は拙訳、『新島襄 教育宗教論集』(岩波文庫)所収の邦訳「日本におけるキリスト教主義高等教育のためのアピール」参照) 未信者の状態で同志社に集まってくる若者の多くが、学校を出るころには信者になっているという。ごく初期の例だと、同志社英学校が開校して2年目の1876(明治9)年に入学した徳富蘇峰は、すぐさま新島から洗礼を受けている。熊本バンド出身の蘇峰の場合、入信は以前からの宿願だったが、同志社の教師や仲間の感化で受洗した者も多かっただろう。そのことはもちろん、新島の大きな喜びである。彼らはまさしく〈地の塩、世の光〉として、この島国に福音を広める重要な役割を果たすだろう。 ところが、先行きは決して明るいものではなかった。なぜかというと、せっかく入信した若者が、キリスト教から離れてしまう現象が見られたからである。その大きな原因は、同志社に神学以外の高等教育課程が存在していないことにあると、新島はいう。 「神学以外の高等教育課程が我々の学校にないので、彼ら(生徒)はさらに学ぶためにはどこか他所に行かなければならない。ミッション・スクール(同志社)にいる間はキリストへと導かれるが、他所へ行ってしまえばキリストを捨てる危険がある。彼らはまだ若い。彼らの信仰はまだ堅固ではない。彼らはさらなるケアを必要としている。彼らは、不信心の深みのなかに失ってしまうには、あまりに貴重な宝のような存在だ」(同上)。 同志社で学ぶ生徒は、在学中はキリストに心を向ける。しかし、彼らがさらに高度な教育を求めた場合、同志社にはそれがないので別の学. 前回見たように、新島は西洋世界の進歩の原動力はキリスト教だと考え、キリスト教道徳に根ざした学術と教育の必要性を訴えた。また、政府の教育努力の賜物としての東大を高く評価する一方で、その知識偏重を批判したこともすでに触れた。 だが、いくら東大が知識偏重でも、それだけでは〈棄教装置〉たり得ない。大学当局が学生に背教や改宗を迫るわけではないからである。新島自身、東大の学生によるキリスト教主義に基づく活動を知っていた。1889(明治22)年、同志社で開かれた夏期学校での演説で「唯物論の盛なりし帝国大学にも既に基督教青年同盟会あるを見る」と語っている(「夏期学校に対する感情」)。 この前年、帝国大学にYMCA(キリスト教青年会)が設立された。やがて東大のYMCAが運営する寮は、大正デモクラシーを代表する政治学者吉野作造や、戦後に総理大臣となる片山哲らを輩出している(公益財団法人東京大学学生キリスト教青年会ウェブサイト)。だとすれば、いかに東大が知識偏重教育を行っていたとしても、学生個人の志ひとつでキリスト者であり続けることは可能ということになる。 実のところ、新島が東大を敵視した理由は、知識偏重などという消極的なレベルにとどまるものではなかった。新島にとって、東大はキリスト教を攻撃する〈武器〉を製造・精錬する工場だったのである。その〈武器〉は、日本のキリスト教を早くも退潮へと追い込む威力を秘めていた。 新島は、滞米中の1884(明治17)年、アメリカン・ボードに提出した文書で次のように述べている。「我々の敵が持っている武器は近代的で科学的であるから、我々はキリスト教精神を吹き込んだ、最高度に改良された近代的手段で対抗すべきだと感じている」(‘MY HUMBLE SCHEMES OF THE SPEEDY EVANGELIZATION OF JAPAN’、『新島襄全集』第7巻、『新島襄 教育宗教論集』所収の邦訳「日本伝道促進についての私案」参照)。キリスト教に襲いかかりその伸長を阻む敵は、近代科学で武装している。そして、日本における近代科学の中心は、いうまでもなく東大である。. 新島襄()は同志社を創設したキリスト者であるが,地質学に親しかったことはすでに知られている(島尾,1986,1989;八耳,など).同志社大学は年5月16日(火)~7月9日(日)に,ハリス理化学館同志社ギャラリーにて,第12回企画展「新島. だが、新島が近代科学そのものを敵視していたわけではないことは、医学教育への参入を熱望していたことを見ても明らかであろう。 敵の真の〈武器〉は、「唯物論」「無神論」と骨がらみになった近代科学である。1883(明治16)年、新島はキリスト教徒の親睦会での演説で「基督主義の大学」を設立する必要性を説きつつ、次のように訴えた。 「今や我基督教を襲ふものは現今自ら学者と称するものならすや、ミル、スペンソル(スペンサー)の糟粕をなむるものならすや○彼無神論を吐露して我を襲はゝ我輩宜く有神論を以て之に答べし、彼学術を以て来らは吾学術を以て之に答べし、故に吾人決して平常の用意修練に怠るべからす」(「基督教皇張論」、原文カナ)。 いまキリスト教にとっての最大の敵は、「無神論」と「学術」を手に襲いかかってくる「学者」たちである。新島は、懐疑主義的な宗教論で知られるジョン・スチュアート・ミルと、社会進化論を唱えたハーバート・スペンサーを無神論陣営の理論家と見なし、両者の真似をしつつ「無神論」と「学術」を組み合わせる日本の「学者」を主要敵に据えた。彼らとの〈宗論〉に勝利するためには、「有神論」と「学術」を組み合わせる「基督主義の大学」が必要なのである。 ちなみに、1891(明治24)年に官立学校擁護論を唱えて「外国教会お助学校」同志社をくさした外山正一(前回参照)は、スペンサーの有力な紹介者であり、のちに東京帝国大学総長となった。東京大学総理・帝国大学総長を務めた加藤弘之もまたスペンサー社会進化論の受容者であり、のちにキリスト教排撃の代表的人物として名を馳せた。 新島は、「唯物論」の影響は好色や放蕩と不可分であると主張していた(‘MY HUMBLE SCHEMES OF THE SPEEDY EVANGELIZATION OF JAPAN’)。だとするならば、「唯物論の盛なりし」東大は、学業優秀な堕落者を量産する学校になると考えるのが自然である。また東大に進学した同志社出身者がキリスト教から離れると考えるのも、自然なことである。. 尾原宏之 甲南大学法学部准教授。1973年生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。日本放送協会(NHK)勤務を経て、東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。博士(政治学)。専門は日本政治思想史。著書に『.

See full list on christian-center. 新島研究の系譜と動向―「新島学」への道 新島襄と北垣国道 新島襄と徳富蘇峰 浮田和民と新島襄―新島イメージ・初期同志社論を中心に 新島襄と家永豊吉―家永の新島宛英文書簡を中心に “空虚”な中心―新島襄と柏木義円 新島襄における「文明化の使命」―中国・日本・アメリカ. こうした新島襄の教え子である牧師や地元協力者の働きを受け、襄自身も京都~会津に向かいました。 5月22日に会津若松に到着するとその晩には信仰尋問会を行い、23日に襄は洗礼式・聖餐式を行い、 中村舡造・タカ夫妻をはじめとする会津若松教会最初の.

新島は、同志社卒業生が知的レベルで東大の学生に劣ることを認め、その一方でみずからの教え子たちの高い人格を称賛していた。「(同志社の)卒業生は、政府が設立した東京大学で学んだ者には劣るかもしれないが、高い道徳性と熱心なキリスト教的性格によって人々の大きな尊敬を集めている」(同上)。 同志社の卒業生は、キリスト教を通して高い道徳性と情熱を得た。だが新島の抱えていた問題は、もはやそれだけではどうにもならないということだった。新島は、東大を中心とする政府の学校体系が日本を学歴社会化させ、とくに上流層の教育・教養水準を著しく向上させるだろうことを的確に見抜いていた。 「もしこの国に我々のミッション・スクール(同志社)を超える高度な学校がないとすれば、現状のままでいいだろう。だが、政府の大学は近年大きく進歩し、数多くの卒業生を送り出すようになった。社会のリーダーが取り組む公的な仕事から、ろくに教育を受けていない者が退出させられる時が迫っている」(‘AN APPEAL FOR ADVANCED CHRISTIAN EDUCATION IN JAPAN’)。 高度な教育を受けた者だけが日本社会のリーダーになれる時代が到来しつつある。そういう時代には、人格や情熱だけでキリスト教を広めることはできない。教育・教養水準が高く、社会的影響力のある人々を信仰に導くことができないからである。新島は、伝道者には第一級の教育が不可欠だと考えた。 布教に必要なのは伝道者だけではない。新島は、クリスチャンの医師はもちろん、クリスチャンの政治家、クリスチャンの弁護士、クリスチャンの編集者、クリスチャンの商人が必要だと説く。優秀なキリスト教徒を日本社会のリーダーに育て、一流の伝道者と協働させるためである。 だから、キリスト教大学なのである。キリスト教精神と高いレベルの近代的学術を融合することではじめて、日本にキリスト教を広めることができる。それだけが日本人「3700万人の貴重な魂」を「唯物論」がもたらす堕落から救い出す希望の光となる。新島の〈反東大〉論の核心は、ここにあった。. 元治元年(1864)命がけの海外渡航を決行し. See full list 新島襄全集 - 新島襄 on kangaeruhito. 新島がボストンに着いて、アメリカ生活を始めたとき、彼を迎え入れ、親切に世話をしてくれたのは、ニューイングランドのピューリタンの伝統に生きている人びとでした。一六二〇年、英国の国王や国教会からの迫害を逃れ、信仰の自由を求めて、メイフラワー号に乗って大西洋を渡り、聖書の教えに基づく共和国の建設をめざして、ニューイングランドにやってきたピルグリム・ファーザーズの伝統を継承したピューリタンたちは、先祖たちの自由の精神、デモクラシーの精神に満ち満ちていたのです。新島は彼らと出会い、彼らの営む学校や教会で生活することで、自由を大切にしながら生きるとはどういうことかを体験したのです。 しかも彼らのなかには、個々の教会がいかなる信仰的・世俗的な権威からも自由、いかなる教会的・教理的信条にも拘束されない自治と自由を尊重するという、いわゆる「会衆派」の教会に属している人たちが多かったのです。そしてまた、新島襄の学んだ学校、フィリップス・アカデミーは一七七八年、アーモスト大学は一八二一年、いずれも会衆派教会の信仰に根ざして、若者たちの教育をするために設立された学校でしたし、アンドーヴァー神学校は、一八〇七年に創立された会衆派の最も古い神学校だったのです。ですから、いずれもピューリタンの特質である敬虔な信仰・自由・愛・平等・正義などキリスト教的徳育を基本とした人格教育を目指していました。新島はこれらの学校で、教師と学生が日常の人間的な交わりや学問的な研(けんさん)鑽をしていくなかで、お互いを尊重し合い、人格や思想の感化を受けながら、幅の広いカリキュラムで多様な分野の学問を学ぶことによって、真の自由教育とは何たるかを体得したのです。 新島はさらに、一八七二年三月から翌年八月まで、岩倉使節団の田中不二磨の秘書・通訳として、アメリカだけでなく、さらにヨーロッパへ出かけ、各国の教育制度や教育の実情について精力的に視察しました。このとき、新島は政府の役人になることを要請されるのですが、それを拒否し、「日本政府の奴隷」(a slave of the Japanese Government)としてではなく、あくまでも「自由な日本の一市民」(a free Japanese citizen)として、使節団に協力したのです(『新島襄全集6』九六~九八頁)。 新島は、ドイツ(プロイセン)のベルリンとヴィー. 明治文學全集 46 新島襄・植村正久・清澤満之・綱島梁川集 新島 襄 、 武田 清子吉田 久一 | /1/28 単行本.

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